頑張る先輩方 阿部 裕幸(JA邑楽館林農業協同組合 代表理事組合長)
随分と昔の話になる。
昭和49年4月16歳になった私は、大泉高校園芸科に第7期として入学した。
父が施設園芸でトマト栽培と米を生産する専業農家だったので、特に何も違和感なく進路が決まった。
当時の大泉高校は別名「イモ高」と呼ばれ、農業高校を揶揄するような呼称だったが、バンカラな校風でユニークな生徒が多かった。
紛れもなく私もその一員である。生徒の約半分は3年後に家業を継ぐという着地地点が用意されているため、勉強よりは学生生活を楽しもうといった雰囲気であった。
園芸科では、実習の一環として育てた鉢物をリヤカーに乗せ、町民の方に販売する授業があった。
最初は恥ずかしかったが慣れると結構面白く、馴染みのお客さんも増えてきた。
いつも鉢物を買ってくれた初老のおばさんが、「お腹が空いているでしょう」と言って角切りのサツマイモが入った蒸しパンをご馳走してくれた。
一日中腹を空かしている学生にとって何ともありがたい差し入れであった。
そのおばさんは「この蒸しパン粉は農協から買ってくるの。一番おいしくできるのよ」と言っていたことを、なぜだか今でも鮮明に覚えている。
そんな、のんびりしとした学生生活を送っていたのだが、高校3年になった春、突然大学に行きたいと猛烈な欲求に襲われた。
様々な理由で推薦入学の道を断たれた私は、無謀にも一般入試となった。
生まれて初めて受験勉強をすることになったが、何から始めていいのか見当もつかない。
特に受験科目の英語は中学生レベルで止まっており、脳みそが溶け出すくらい解らない。
さいわい3年間担任していた先生が英語教師だったので、授業の始まる前の早朝補習をお願いし引き受けてくれた。
その補習の条件として当時独身であった先生への朝飯提供であった。
私の母は毎朝二人分の弁当を作ってくれ私は学校に行ったが、その補習授業がとんでもないスパルタで何度心が折れたか分からない。
結果、東京農業大学に入学することができた。
職員室に報告しにいくと先生は「俺が教えたんだ!合格しねーわけねーだろ」と妙に素っ気なく言われたが、少し嬉しそうに笑顔を返してくれた。
大学生活は「事実は小説より奇なり」を体現するような4年間であったが、機会があったら後で話をしよう。
大学卒業後、当時の館林市農協に就職し営農指導員として職員人生がスタートした。
いろんな方々にお世話になり、はや40年。今はJA邑楽館林の代表理事組合長という重責を拝命している。大泉高校から多くの卒業生がJA邑楽館林で活躍をしていることが何とも嬉しい。
農業は国の根幹たる産業です。君たちはそれを学んでいる。大きな志を抱いて社会に飛躍してください。期待しています。